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2009年1月12日 (月)

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バッハの初期作品発見と誤訳

2008年5月16日 (金)

約1ヶ月前の話題だが、J.S.バッハの初期作品の写本が発見されたそうだ。
バッハ:新たな初期オルガン作品の写本発見という記事で、次のような内容である。

ドイツのハレ大学は15日、作曲家バッハの新たなオルガン作品の写本を発見したと発表した。曲はこれまで最初の5小節だけが知られていたコラール(賛美歌)「主なる神われらのそばにいまさずして」の19世紀の教会音楽指導者ルスト氏による写譜。

 同大学が取り組むヘンデル作品集の編さんをしていた2人の音楽学者が、ルスト氏の遺品から見つけた。曲のスタイルからバッハの初期の1705~10年ごろの作曲とみられている。
(C)毎日新聞

これと同様の記事が別の新聞にもあった。
バッハ初期の作品、全編見つかるという記事で、次のような内容である。

ドイツの作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)が作曲し、これまで一部しか知られていなかった曲「主なる神我らのそばにいまさずして」の全編を筆写した楽譜が見つかった。ハレ大学が15日、発表した。

 バッハも音楽監督だったライプチヒのトーマス教会で19世紀後半に音楽監督を務めた音楽家が筆写したもので、ハレ大学が入手した遺品の中に含まれていたという。

 楽譜には「バッハの作品」との記述があり、この曲が作られたとされる1705~1710年当時に流行したオルガン音楽様式の影響を強く受けていた。バッハ史料館(ライプチヒ)は「バッハの初期の作品はとても少なく、今回の発見は学術的にも非常に貴重だ」と話している。
(C)朝日新聞

後者の記事タイトルは「バッハ初期の作品、全編見つかる」となっているが、私の記憶では最初は”バッハ初期の作品”ではなくて”バッハ初期の合唱曲”になっていたように思う。これは、”コラール”を誤訳したものだろう。人材豊富な大新聞といえども単純な誤訳はあるのだね。

つくつく法師

2007年8月20日 (月)

ここは農村。以前ほど蝉の数は多くないが、それでも都会よりは多い。いつもお盆の少し前からつくつく法師が鳴き始めるが、今年はまだ鳴かない。いままでと比べると異常に遅いと思う。Googleで検索してみると、数年前の話だが7月末からつくつく法師が鳴いている、という記事もあったので、やはり今年は遅いと思う。

一番暑い時期はお盆の付近だろう。その暑さのピークのときに秋を予感させるつくつく法師の声を聞くと少し寂しい気持ちがするのは、この声を聞くと夏休みももうすぐ終わりと思った子供時代の記憶のせいか。

と思っていたら、さきほどつくつく法師の初鳴きを聞いた。あまり元気はなく、すぐに鳴き止んでしまったが。

つくつく法師の鳴き始めがいつか、は私は記録していないが、鳴き終わりは一昨年から記録している。昨年(2006年)は10月17日だった。この日は天気は良かったがあまり気温は高くなく、数回鳴いて終わり、だった。

一昨年(2005年)は10月15日。それ以前は10月10日頃と記憶している。だから、昨年の10月17日はこの数年では一番遅い。

Wikipediaツクツクボウシによれば次のとおり。

成虫は7月から発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる8月下旬から9月上旬頃には鳴き声が際立つようになる。9月下旬にはさすがに数が少なくなるが、南日本では稀に10月上旬に鳴き声が聞こえることがある。

私の住んでいる所は南日本ではなく関東地方だが、昨年は10月中旬まで鳴いていたことになる。気候の変動による影響か。

昨年はつくつく法師の鳴き終わりがこの数年で最も遅く、昨年から今年にかけての冬は暖冬。そして今年は鳴き始めが遅い。つくつく法師は暑さのピークを予想して地上に出て鳴き始める、とするのなら、今年は残暑は厳しくまだまだ猛暑が予想される、ということかもしれない。

昨日は涼しかったとはいえ、8月1日の梅雨明け以降の暑さは厳しかった。35度を超える日が続くなど、数十年前にはなかったと思う。その数十年前は厳冬が続き、地球は氷河期に入る、などという少々ガセネタっぽい本も出ていたことを覚えている。

今年春には蝶の少ないことが新聞記事にもなった。つくつく法師の鳴き始めの遅さといい、極端な気候の前触れでなければ良いが。

ボキャブラリーを増やすには

2007年8月8日 (水)

私は語学が大の苦手である。コンピュータ言語なら覚えるのは得意な方だが、コンピュータではなく人のしゃべる外国語のマスターは大変苦手だ。英語、そのためにいままでにどれだけのお金と時間をかけたことか。そして英語勉強のためのハウツー本もどれだけ買ったことか。最近では5,6年前に流行った「英語は絶対、勉強するな」本も読み、数週間実践してみた。毎日1時間ほど英語のCDを聞いたが、眠くなるだけだった。

そもそも英語をマスターするモチベーションが弱いことも上達しない大きな原因かもしれない。言い訳するようだが、昔からアメリカという国が政治的な理由で大嫌いだったのだ。しかし、バッハの国ということでドイツは好きな国なのだがドイツ語も全然駄目だったので、やはり語学に向かない体質なのかもしれない。

ただ、いつか日本を脱出しなければならない日が来るかもしれない、と考えている。日本の急速な右旋回に危機意識があるからだ。そのような日は来て欲しくないが、そうなったときのために外国語のひとつはマスターしておかなければならない。家族はフランス語が得意なので私は別の言語にすべきだ。となると、私のマスターすべき言語は悔しいが英語、ということになってしまう。

私の場合、語学が苦手な原因は2つ。ひとつはまったく聞き取れないこと。もうひとつは圧倒的ボキャブラリー不足。前者については、楽器をやる人は聞き取り上手なので語学が得意な筈だ、と良く言われるがそうではないことは私が証明している。後者のボキャブラリーを増やすことについては、先日面白い記事を読んだ。ITMedia Newsの幼児のボキャブラリー急増メカニズムに新説という記事だ。これは米科学誌Scienceに発表された、幼児が生後18カ月前後に急激にボキャブラリーを増やすメカニズムに関する研究だ。

アイオワ大学のボブ・マクマレイ助教授によると、子供に「ボキャブラリーの急増」が起こるのは、難易度が異なる単語を同時に繰り返し学ぶという単語習得の方法によるものだという。

ちなみに今までの学説は次のとおりだったそうだ。

「発達心理学や言語発達の分野ではこれまで、ボキャブラリーの急増を説明するのに、ある時点で子供に何らかの変化が起こるからだと仮定してきた」とマクマレイ助教授。子供が「ものには名前があることを発見」したり、「より効率的なメカニズムを使い始め」たり、「習得した単語を使って、新しい単語を発見し始め」たりすることが理由だとされてきたという。

そうではなく、次のメカニズムとのこと。

一方、同助教授は、コンピュータシミュレーションと数学的分析を行った結果、単語はある一定数の繰り返しを行えば習得できると考える。習得が簡単な単語を小さな瓶、難しい単語を大きな瓶に例えると、その単語に接するたびに瓶の中身が増えていき、中身がいっぱいになったところでその単語を習得できるというメカニズムだ。簡単な単語(小さな瓶)よりも難しい単語(大きな瓶)の方が多いため、一定の時間が経ってから習得できる単語(いっぱいになる瓶)が急激に増えるのだという。

訳が良くないので言いたいことが完全には伝わってこないが、結論は次のとおり。

このメカニズムを踏まえてマクマレイ助教授は、「一度に複数の単語を学ぶこと、簡単な単語よりも、難しい単語をより多く学ぶこと」が単語習得に大きく影響するとしている。

なるほど、難易度の異なる単語を勉強すること、それも難しい単語をより多く学ぶことが大事とのこと。この研究は幼児についてのものだが、大人だってこの傾向があるだろう。この反対ということはありえないだろう。つまり、大人も単語を勉強するときは、難易度を取り混ぜ、かつ難しい単語をたくさん学べばよい、ということになる。さらにこの考えを敷衍すると、新しいことを勉強する際にも難易度の異なる内容を学習し、かつ難しい事も取り混ぜて難しい内容をたくさん学習すれば身に付きやすい、ということになる。

確かに今までに自分のやってきたことを思い出すとそうかもしれない。それまで知らなかったコンピュータ言語やコンピュータサイエンスの学習、また楽器の学習の経験では、短期間に集中して難しい内容までも学習・練習したほうが修得率が高かったかもしれない。理解できる範囲の内容の学習やできることの練習だけをやっていては修得・上達のスピードは遅いかもしれない。私の経験なので一般論にはならないが。

ということで、私の英単語の勉強法は決まった。問題はそれをいつやるか、だ。

物忘れは「若者」の専売特許

2007年7月16日 (月)

歳とともに物忘れがひどくなるのは定説である。なぜか忘れやすいのは固有名詞。我が家でも会話になぜか「あれ」、「それ」等の代名詞が増えているのは歳のせいか。それほど歳を取っているつもりはないのだが。老化現象による健忘症とは別に、なんと物忘れは、IT機器などの科学の進歩の「成果」らしい、という記事を読んだ。先日のCNN/ロイターの記事自宅の電話番号などの「失念症候群」と、携帯普及での話題である。

アイルランド・ダブリンにあるトリニティー大学の心理学教授らが3000人を対象に実施した調査

によれば

四分の一が自宅の固定電話の番号を忘れ、三分の二が友人3人以上もしくは家族の一員の誕生日を失念していたという。

なんと、四分の一が自宅の固定電話の番号を忘れたとは、その率の高さに驚かされる。そして

世代別では、ハイテク機器に慣れている若者世代によるこれらの記憶力低下が著しかった。30歳以下は50歳以上に比べ、覚えている誕生日や数字の数が少なかったという。また、調査対象者の三分の二は、重要な日付を確認するため電話などの電子機器に依存していた。

物忘れは壮年以降の専売特許で若者には無縁、といままで私は思っていたが、この調査では逆に若年層のほうが記憶力低下とのこと。

電車に乗るとかなりの人数が携帯電話を操作している。携帯電話嫌いの私としては、電車に乗っている時間まで人と繋がっていたい人たち、そして携帯でのコミュニケーションを望み対面でのそれを嫌う人たち、に非常に批判的だ。携帯の弊害として、携帯は人から対面コミュニケーション能力を奪う代物、と私は考えていた。しかし携帯の弊害はそんなものではなく、携帯は人から記憶能力という人間の基本的能力を奪う代物だったのだ。

記憶は思考の前提である。様々な情報を記憶して初めて、それらを有機的に繋げた思考というものが可能になるのだ。記憶能力が低下ということは、思考能力、しいてはすべての知性の低下に結びつくのだ。

このブログでは時々、政治を論理的に思考できない人たちを揶揄している。その主なターゲットは、思考無しでムードで政治を判断して右傾化している若年層の人たちだ。最も携帯を使う層である若年層の思考力が弱いのは、なるほど、その携帯などの電子機器に負うところが大だったのだ。

そして、電子機器が人間の能力を奪った端緒、それは電卓かもしれない。電卓が人間の暗算能力を奪ったのだ。

ひとがひとである所以はその思考能力だ。その前提となる記憶能力が失われつつあるということは、人類はIT機器がゆえに滅びるかもしれない、そう思った。

 

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