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「戦後60年 作家・野坂昭如さんの寄稿」について

2005年12月20日 (火)

5日ほど前の毎日新聞に掲載された記事戦後60年 作家・野坂昭如さんの寄稿の感想を述べたい。

この「平和」な日本で、異常とされる事件が多発し、世間は驚き嘆き、殺人ゲームの影響だのビデオがどうした、家庭環境、教育問題をあげつらい、精神病理学、心理分析の専門家はしたりげに解説、通りいっぺんの講釈を述べる。しかし問題はそう簡単じゃない。世間にしてみれば他人事、自分とはかかわりのない事件とみなし、本質について誰も考えようとしない。

 この曖昧(あいまい)さこそ日本人の特徴。この前の敗戦を振り返ることなく、うやむやのうち繁栄を遂げ、「平和」というスローガンに、いつしか日本人は自分でモノを考えなくなった。そのツケがまわってきたのではないか。

野坂氏は「日本人は自分でモノを考えなくなった」と書いている。その原因はいわゆる「平和ボケ」との説。私は他にも原因があると思っている。それは、日本が自分の意見を主張し難い社会である、ということだ。戦前・戦中は体制と異なる主張は投獄、場合によっては死を意味した。戦後においても、そのレベルは下がったとはいえ、大勢の意見を前に自分の意見を表明しにくい風土は生き残っていあ。自分を主張することは和を乱す良くない行動と見做される価値観が生き残っていた。そして9・11以降、その傾向はますます強まっている。その流れの中で大衆は自分の意見を表明しようとすることをますます避けるようになった。その結果、大衆からは思考能力が失われていった、と私は考える。大衆、特に若者について野坂氏は次のように述べている。

今、若者にとって、新聞やテレビで報道されている内容について、それがいいかげんなのかどうかすら判らない。国際情勢や国内における問題は、自分の上を通りすぎていくことであり、これは、都会における四季の移り変わりに等しい。かたや大人たちは、子供としゃべることを放棄しているがごとく見える。言葉がない、日本語がない。これでは記号が飛びかった戦争中と変わらないじゃないか。

大衆の中でも若者が思考能力を失い、そして年長者が若者との議論を放棄したとの説。前者は私もそのように思う。しかし後者の説は結果としてはそう見えるが、それは年長者の意図したものではない。議論というものは両者が対話・議論する意思があって初めて成り立つものなのに、考える意思のない若者には議論する意思がないからだ。そして議論であれば、そうする意思だけでなくある程度の議論能力も必要。でもそんな能力は教育されていない。これは国側の策略かもしれない。統治しやすい「国民」にするために。

意見が違っても構わない、大人の言葉を聞かせる仕組みを構築すべきだろう。

それはそのとおりなのだが、具体的には、と聞きたくなる。

戦争に負けて、大人たちの態度はガラリと変わり、昨日までの敵も何もない。人も国家も一日で変わり得る、それが人間というもの。だからこそ、今現在、常に疑問を持ち、疑ってみる必要があるのだ。

いつも疑うこと、が野坂氏の解なのだろう。でも疑うことを忘れた羊にどうやれば疑うことを教えることができるだろうか。狼(軍国主義)でも放すか。

戦後の繁栄を謳歌(おうか)する中、いつしか日本人は、個人で地道にものを考えることをしなくなった。ムードに流されて支持、不支持の意見を表明、その音頭をとっているのがマスコミ。この図式は、さらに酷(ひど)くなっている。

まったくそのとおり。マスコミの責任は甚大である。

何にせよ、しゃべりあうことが大事。生きた言葉で議論することに意味がある。

それはそのとおり。しかししゃべりあう(議論する)ことのできる人がどんどん減っていることが問題なのだ。

アニムス=クラールス室内管弦楽団・合唱団演奏会

2005年12月17日 (土)

次の演奏会を聴いた。

Animus Clarus

アニムス=クラールス室内管弦楽団・合唱団

第11回演奏会

オール・ゼレンカ・プログラム

~アウグスト強王時代のドレスデン宮廷音楽~

ヤン・ディスマス・ゼレンカ

Jan Dismas Zelenka (1679-1745)

●7声の「ヒポコンドリー」イ長調

Hipocondrieà 7 concertanti A-dur, ZWV187

●ミゼレーレハ短調(詩篇第50番)

Miserere c-moll(Psalm 50), ZWV57

●聖三位一体のミサ曲イ短調

Missa Sanctissimae Trinitatis a-moll, ZWV17

2005年12月17日(土) 15:00開演

浅草教会

指揮・チェンバロ:三重野清顕

アマチュアの室内オーケストラ・合唱団である。私は初めて聴く団体である。チェンバロの三重野氏がチェンバロを弾きながら指揮をするスタイル。変わっているのは楽器で、トロンボーンは古楽器(サックバット)であった。しかしピッチはモダンピッチ。珍しいことにテオルボ(低音リュート)が入っていた。他はモダン楽器。

楽器が普通でない上、プログラムも尋常ではない。すべてゼレンカの曲という、プロ団体ではあり得ない選曲。

ゼレンカは上記プログラム記述のとおり1679年生まれなので、大バッハの6才年上という事になる。ゼレンカの曲で恐らく一番有名なのは、「2本のオーボエとファゴットのためのソナタ(全6曲)」だろう。このソナタはオーボエ吹き泣かせの難曲として有名らしい。今日聴いた3曲は、私は初めて聴く曲だった。このような珍しい曲を演奏する際にはパート譜に苦労すると思うが、見たところ手書きのパート譜と、スコア拡大コピー切り貼り譜だった。自分たちで楽譜を作るとは大変なエネルギーを持った団体である。

初めて聴くゼレンカのこれらの曲は、特に前半の2曲は和声が面白かった。半音階もあり、多彩な曲だった。またメインのミサは壮麗な大曲。18世紀前半の曲というと大バッハを思い浮かべるが、ゼレンカを聴くと大バッハの音楽は当時時代遅れと見做されていたことが実感としてわかる。

さて演奏だが、場所の問題が大き過ぎで本来の持ち味があまり出ていなかったと思う。場所は教会だが天井が低く、客席数も100ちょっと。その狭い空間なのにオケは良く鳴るオケなので、聴いていて疲れる場面もあった。プログラムを見ると、この団体は今まで三鷹氏芸術文化センターなどの音響に優れたホールで演奏してきたようだ。本日も音の良いホールで聴きたかった、ということが最初の感想である。

指揮の三重野氏は指揮よりもチェンバロの演奏がメインとなっているようで、オケへの指示が細かくは行き届いていなかったと思う。狭い空間でオケが鳴りすぎているためかなり強く押さえなければならない場面でも、それが出来ていなかったのは残念である。プログラムノートは三重野氏の筆。それを読むと彼は音楽学をよく理解していることが良くわかった。そしてチェンバロの腕も一流である。しかし状態の悪いホールでチェンバロを弾きながらの指揮は、三重野氏といえども少し無理があったように思う。

全般に管楽器は非常に良かった。特にオーボエは、音色は私はあまり好きではないが好き嫌いは別にして技術レベルは大変高かった。またフルートは、ノンヴィブラートに徹したことに敬意を表する。フルートという楽器はロングトーンでもヴィブラートをかけるのが当たり前なのにそうしないということは、大変な努力を要するはずだからである。

それにしてもこの団体の目指す方向が良くわからなかった。楽器は一部に古楽器が入り、チューニングも古典調律のようで弦を1本づつ調弦している。しかし演奏は、ほとんどの弦楽器メンバーは通常のモダンオケでシンフォニーを演奏している演奏スタイルだったように思う。具体的には音の減衰が少ないため、古典的響きに乏しい。音がうるさく感じたのも減衰の少なさに起因している部分もある。このオケは、演奏スタイルも古楽器的方向を目指すのか、逆に古楽器が入っていてもモダン楽器の特徴を全面に出した演奏を目指すのか、その方向が私にはよくわからなかった。

最後に演奏とは関係ない苦言を2つ。ホームページには演奏会の場所の地図を掲載してもらいたい。近所にほとんど同じ名前の教会があるため、どちらか判断できなかった。それから、プログラムには出演者の名前を掲載していただきたい。

この団体はメンバーは若く、若いエネルギーに満ちている。そしてユニークさは真似できない。この団体の今後に非常に期待している。

森永卓郎氏の毎日新聞コラム

2005年12月15日 (木)

12月12日の毎日新聞夕刊に掲載された何でも「改革」 言いたいは森永卓郎氏と色川大吉氏のコラムであった。そのうちの色川氏のコラムに対する私の感想は13日にこのブログの色川大吉氏のコラムで述べた。続いて、同記事の森永氏の論について感想を述べる。

森永氏は、日本の貧富の二極化、特に貧困層の増加について次のように例証している。

昨年、厚生労働省は「就業形態の多様化に関する総合実態調査」を発表した。非正社員の比率について、99年は27・5%だったが、03年には34・6%に増加している。その非正社員の税込みの月給といえば、全体の40・8%が10万~20万円未満で、37・2%は10万円未満である。彼らの平均年収は120万~130万円しかないのではなかろうか。

OECD(経済協力開発機構)は、所得が全家計平均の半分以下の家庭を貧困層と定義する。今年2月の報告書によると、日本の貧困率は加盟30カ国で5番目に高い15・3%になった。ワースト1はメキシコ(20・3%)、2番目は米国(17・1%)だった。ちなみに最も低いのはデンマークの4・3%である。

この事実から、日本の日本の貧富の二極化、特に貧困層の増加はかなり進んでいることが伺える。将来、といっても10年後くらいに、貧困率一位が米国、二位が日本などという事態は容易に想像しうる。貧困層をますます増加させる「小さな政府」を押し進めている小泉政権を支持しているのは貧困層の若者という皮肉。

次に森永氏は、富裕層について次のように述べている。

いわゆる「勝ち組」は金もうけと節税の話しかしない。社会貢献という概念がない。自分たちが豊かさをさらに実感するために「周りを貧乏にしてしまえ」ともくろんでいるに違いない。高所得者にきちんと負担を求める累進課税はなぜいけないのか。「税金が高いと有能な人材が国外に逃げる」との意見がある。結構ではないか。そのような人は日本から出ていってもらいたい。

富裕層に社会貢献の意識がないことはその通りだと思う。これに関しては米国のほうが意識が高いと思うが、それはキリスト教に起因しているのではないか。

この部分の後半の論は、少々感情的過ぎて論理的ではないので説得力はない。

累進課税は必要だが、税金が単純に高いか低いかの問題ではない。サービスの質と税金の使われ方が問題なのだ。支払っている税金に見合うだけのサービスが受けられれば、税金が少々高くても市民は受け入れる。しかし福祉・文化を始め国のサービスレベルは低い。また税金の無駄使いが目に余る。例えば、マイナスはあり得ない国防費、旧権力者という理由だけで働かない人を食べさせているだけの皇室費、不要に多い公務員の人件費等。国からはレベルの低いサービスしか受けられず、支払っている税金を無駄遣いされたのでは、それこそ日本から出ていきたくなるのだ。

色川大吉氏のコラム

2005年12月13日 (火)

私は朝日新聞と毎日新聞を朝夕刊とも購読している。私の家は毎日新聞の夕刊配達区域外なので朝刊と前日夕刊がまとめて配達されるため、新聞ではなく旧聞になる記事も多いが、それでも最低2紙を読む必要を感じているため購読している。

政治に批判的な新聞といえば以前は朝日が代表格だったと思うが、最近はそうでもないように思う。最近は毎日のほうが反権力の意識があるように感じている。

昨日(12日)毎日新聞夕刊の記事何でも「改革」 言いたいは森永卓郎氏と色川大吉氏のコラムであった。そのうちの色川氏のコラムに対する感想である。

色川氏の文は実に理路整然として無駄がなく説得力がある。私もこのような文を書きたいものだ。

さて、色川氏は最初に小泉首相を一刀両断。

小泉純一郎首相の名前は歴史書に刻まれるだろう。「小泉改革」の実現者として記録されるのではない。小泉政治の本質は結果から見れば戦後の民主主義を変質させた、「改革」の名に値しないものとして残るのだ。彼は日本を民主主義とは反対の方向に押しやった。

その例として靖国問題を挙げている。

それを国民に支持されているからと言うなら、ポピュリストのおごりだ。日本人にはもともと付和雷同の気質がある。A級戦犯の東条英機元首相を当時の国民の多数が支持し、太平洋戦争に至る歴史を忘れてはなるまい。国民が間違いを犯すことは往々にしてある。

ここが非常に重要な論点と思う。「国民が間違いを犯す」ということが有り得ると色川氏は考えている。私もそう思う。しかしポピュリストはそうは考えない。

彼が実現した国権の強化、右傾化政策は大きい。「個人情報保護法」「国民保護法」など聞こえはいいが、内実は国民管理の強化、戦時動員法と同じではないか。平和憲法さえ、改正されかねない勢いである。近現代の政治は、封建時代のように権力者が直接に強権を発動することはない。国民を宣伝によって、だますことにあるのだ。

まさにそのとおり。国民、というか愚民はだまされているのである。そして小泉政権になってからの右傾化とあるが、私はその芽は小淵内閣からだ、と思っている。野党の国会戦術を封ずるために与党のみでの採決や強行採決の乱発は小淵内閣以降と思う。民主主義の根本原理は多数決ではなく小数意見の尊重である。その意味で民主主義の破壊を始めたのが小淵氏であり、自民党どころか民主主義をぶち壊しているのが小泉氏、と言えよう。

しかし、私たちは絶望していない。100年単位で歴史を振り返ってみればよい。日露戦争の勝利で軍部の勢威が高まった時、大正デモクラシーが立憲政治を前進させた。太平洋戦争の後は農地改革など一連の民主化によって自由社会を実現した。歴史とは揺り戻しの連続である。実際、「小泉改革」をどれだけの国民が支持していると言えるのか。先の総選挙での与党得票から、私は大ざっぱに4割程度と見る。批判派も同数程度はいる。残りの2割がたまたま向こう側に振れているだけなのだ。

色川氏の見方は少し楽観的に思う。私は批判派2割、向こうに振れているのが残り4割と思っている。

改革はどういう必要があり、誰のためになされるか。私たちは監視しなければならない。放置すれば「権力は基本的に悪をなす」。それが、明治の自由民権運動の教えであった。その精神は今も脈々と生き続けていると私は思う。

いまのマスコミには「権力は基本的に悪をなす」の意識が無さ過ぎる。いまこそこの意識を共有して権力を批判しなければならない時期なのに、マスコミはそれをしていない。マスコミが権力に取り込まれて行くことが戦争への第一歩という歴史の教訓をマスコミは思い出してもらいたい。

マスコミのみならず評論家も権力に取り込まれ批判を控えているいま、政権批判の最後の砦は学者である。歴史学者の色川氏の今後の戦いを期待している。

速読雑考

2005年12月11日 (日)

情報洪水への対応には3つのタイプがあると思う。

  1. 多くの情報から目・耳をふさぎ情報を遮断する人。山奥でひっそりと暮らしている老夫婦を思い浮かべれば良いかもしれない。
  2. 洪水のような情報の中にある自分に必要な情報がほとんど取得できず洪水に流される人。ほとんどの人はこの状態かもしれない。
  3. 情報洪水の中から自分に必要な情報を短時間に的確に取得できる人。一部のビジネスエリートがその例と思う。

私ももちろん「3」のようになりたい。そこで「速読」を身に付ければそのように成れる、と私は考えた。

そこで速読に関する本をいろいろ読んだ結果、あなたもいままでの10倍速く本が読めるをマスターしよう、と思い立った。

この本に書かれている速読は「フォトリーディング」という。公式サイトはフォトリーディング公式サイト。この速読を短時間に身に付けようと思ったらこのサイトで案内している講座(セミナー)に参加するのが一番良いようだが、参加費が結構高い。そこで、約半額のホームスタディ講座を購入した。いまは教材はCDだが私が買ったときはカセットテープ。それなりに真面目に取り組んだつもりだが、読書スピードは2,3倍になった、というところだろうか。

速読に関する本や様々のサイトを見た限りでは、私なりに速読を分類すると2種類あると思う。「右脳速読」と「左脳速読」である。一般的な速読講座では、目を早く動かす訓練をするところが多い。これは基本的に左脳速読と思う。出来るだけ目を早く動かし、頭の中で音声化するステップを排する訓練である。ただこの方法では速読スピードに限界があると思う。目で活字をいくら追っても目を動かすスピードに限界があるからだ。

対する右脳速読をやっている講座は少ない。これは、本の各ページのイメージ(画像)を記憶して処理する方法である。この方法をマスターできれば、速読スピードは超人的と言えるスピードまで上がるようである。しかし、左脳で情報を処理する方法に慣れきった我々現代人には、この右脳速読をマスターするのはかなり困難と思う。左脳速読陣営からは、「低い理解レベルの速読」などと揶揄されているが、これはマスターが困難であることに起因していると私は思う。

さて私の取り組んだフォトリーディングは、左脳速読と右脳速読をうまくミックスした方法と思う。私のような左脳速読レベルでも2,3倍にはなるし、うまく訓練できて右脳速読のレベルまで達すれば、かなりのスピードになる。ただほどんどの人は左脳速読レベルで終わってしまう、と思うが。

ちなみに左脳速読講座を始めた人でも高速な速読ができるようになる人もいるようである。これは、訓練の結果右脳速読を身に付けたから、と私は解釈している。

速読の理想はもちろん右脳速読である。これは、いままでの読書とは違う脳の働きの読書と私は思っている。速読の達人の脳のPETスキャン映像では、速読中は画像処理を扱う後頭部の血流が増えることがわかっているからだ。私のレベルでも、速読がうまく行ったときは後頭部に熱を感ずることもある。

右脳の訓練は難しいと思う。理屈で右脳を納得させることはできないからだ。でも上のレベルを目指して速読の訓練をして行くつもりである。

 

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