月別:7月2007年

バッハ/「フーガの技法」CD

2007年7月21日 (土)

私の高校生時代、うん十年前の話だが、毎日のようにJ.S.バッハの音楽を聴いていた。最初にバッハに興味を持ったのは、偶然買った管弦楽組曲第2、3番とブランデン5番のLP(レコード)。フルートがランパル、そしてミュンヒンガー指揮のシュトゥットガルト室内管弦楽団だった。(当時は古楽器の演奏は無かった。)非常に気に入り毎日のように聴くうちにバッハの音楽に興味をもつようになった。その数ヵ月後、テレビでバッハの「クリスマスオラトリオ BWV248」全曲を放送した。演奏はNHK交響楽団。指揮はマタチッチだったか若杉だったかちょっと記憶にないが。これを聴いてバッハの宗教音楽に目覚め、すぐにリヒター/ミュンヘンバッハOrch,Chorの「クリスマスオラトリオ」のLPを購入。それからはバッハの宗教音楽聴きまくりのバッハおたく生活が始まった。

カンタータばかり聴いているとたまに他の曲が聴きたくなる。そのとき買ったLPが「フーガの技法 BWV1080」だった。オルガンのみで演奏しているLPで、いまはCDで発売されている。演奏者はヘルムート・ヴァルヒャ。当時、この曲のLPは弦楽合奏かオーケストラの演奏ばかりで、ひとりでこの曲を演奏したLPはこれだけだった。結構難解な曲と思うが当時は高校生、毎日聴くうちに曲をすっかり覚え、都会に出たときにこの曲のスコアを買い、それを眺めながら聴く毎日だった。

私にとってバッハの最大の魅力はその対位法。典型的はコラールカンタータの第1曲の壮麗はフーガは昔もいまも聴いていてわくわくする。そのバッハの対位法の集大成がこの「フーガの技法BWV1080」だ。

ヴァルヒャのこの曲の演奏の特徴のひとつは、終曲。終曲である4重フーガが未完成のままバッハは亡くなってしまった。通常は補筆した版で演奏されるが、ヴァルヒャの演奏は、バッハの書いたところまでしか演奏していない。曲の途中でスパッと終わってしまうのだ。その直前には、バッハをあらわすBACHの音が使われている。バッハが自分を表すBACHの音を入れた、その直後でバッハの筆は終わっているのだ。その中途半端な音でヴァルヒャの演奏が終わったその瞬間、なんともいえないむなしさがこみ上げてくる。いまもその部分を思い出し、同じ気分になることができる。

さてこの曲は私はこのLPのみだった。CD時代になってもこの曲のCDは買っていない。そして我が家では、約20年前にLPプレーヤーは故障してしまいそのまま。要するにこの20年、この曲は聴いていないのだ。先日久しぶりに聴きたくなり、ムジカ・アンティクヮ・ケルンの演奏のCDを買った。もちろん、古楽器演奏であることを優先してこのCDを選んだ。この演奏は弦4本とチェンバロ。チェンバロのみで演奏している曲もある。聴いて、2つのことに気が付いた。ひとつは、チェンバロでの演奏は弦楽やオルガンのみと比較して、各声部を最も聞き分けることができる、つまり声部間の分離が良い、ということだ。これはおそらく、チェンバロの一つひとつの音が減衰することに起因しているだろう。もうひとつ気が付いたこと、それはこの演奏は古楽器なのだが時代遅れの演奏、ということだ。その大きな原因は、不自然なほどオーバーなmessa di voce。やりすぎだ。録音は1984年と、かなり古い。アーノンクールが端緒の古楽器演奏は約30年数年前と思う。その当時のアーノンクールと比較すると、技術的には「ムジカ・アンティクヮ・ケルン」が上だがやはりmessa di voce過多である。音も少し固い。というわけで、このCDは少し「負け」。もっと自然な演奏でこの曲を聴いてみたい。

「彦根のバカ市長」訴訟とWikipedia

2007年7月20日 (金)

「彦根のバカ市長」記事を書いた週刊新潮が当の市長から名誉毀損で訴えられていた裁判の判決が昨日(7月19日)あった。

この訴訟は、Wikipediaの彦根市の「行政」カテゴリー記事によれば次のとおりである。

# 市長:獅山向洋
# 2006年10月25日に市職員に対する新処分基準を発表、11月1日に導入。飲酒運転で人身事故を起こした場合原則懲戒免職とするなど厳罰化が図られる一方、獅山市長が憲法38条(何人も、自己に不利益な供述を強要されない)を根拠に「飲酒運転の報告義務は憲法に違反する」とし市への報告義務を削除した。このため倫理観や実効性への疑問などから各方面に波紋を広げ、11月24日までに市役所に電話や電子メールでの問い合わせが473件あり、うち9割以上が批判または批判的意見であった。なお同市長は批判に対し、滋賀九条の会呼びかけ人、弁護士、元検事であることからか「憲法に従ったものが社会常識」「市民には憲法感覚を磨いてほしい」等「間違ったことを言っているとは思わない」「法律論を言っているだけ」という立場である。
# 週刊新潮が11月9日号において、上記の件を批判した上で「報告義務付けは憲法違反と言った彦根のバカ市長」と題した記事を書いた。この記事に対し市長は「自分が『バカ』だという事実はない。関西人なので『バカ』は『アホ』よりも名誉棄損の程度が著しい」と語り、名誉毀損として2,200万円の慰謝料と、中吊り広告上での謝罪を求める損害賠償請求訴訟を起こした。

そもそも市長の論理には無理があると思う。飲酒による人身事故を起こした市職員が市へその報告義務はない、とするのは「憲法38条(何人も、自己に不利益な供述を強要されない)」の解釈の乱用と思う。もし憲法38条を全面に出せば、履歴書に自分に不利なことを書く必要が無い、ということになってしまう。この条文は市民の権利を守るために極めて重要とは思うが、拡大解釈は返ってこの条文の価値を下げてしまう。

それはともかく、市長に対し「バカ」とは週刊新潮も下品とは思うが、批判に対し名誉毀損で訴える市長も過剰反応と思う。大津地裁の判決は、朝日新聞の記事「バカ市長」記事、甘受すべき批判 彦根市長の訴え棄却によれば次のとおりである。

判決は、「彦根のバカ市長」の見出しについて「侮蔑(ぶべつ)的で品を欠く表現」としたが、「地方公共団体の首長の公人としての発言や行動に対する批判、論評は、前提となる事実が真実である限り、原則として自由」と述べ、記事に違法性はないとした。

 また、当時、公務員の飲酒事故が全国的に問題化し、厳罰化を求める世論が高まっていたことを踏まえ、「(厳罰化に)あえて反対意見を述べ、厳しい批判にさらされるのはやむを得ない」と指摘した。

市長は公人であり公人が公人として発言した内容に対する批判は真実なら自由、としたこの判決は当然である。最近は当然が当然でない判決も多いだけに喜ばしい。ちなみに私は公人に対する批判が自由、としたこの判決を支持しているのであって、極右の週刊新潮の側には立っていないことは明記しておく。

直前の行で「公人が公人として発言」と書いたが、公人の公の場の発言は当然公人としての発言である。発言がそうなら行動もそうだ。

世の中の保守政治家共は、「私人として靖国神社に参拝したから問題ない」などと非論理的なことをのたまう。議員という公人が靖国神社という極めて政治的な場に参拝する、という行為は当然公人としての行動であり、「私人として参拝」は有り得ない。公人たる政治家がマスコミの目に触れる行為はすべて公人としてのそれになる、という基本的ルールを無視し、都合の良いように公人・私人を使い分ける「バカ政治家」には強い憤りを覚える。それを指摘しないマスコミもおかしい。

さてこの記事の最初にWikipedia記事を引用した。実は現在はWikipediaの同じページの同じ項目の内容は変更されているのだ。現在のWikipediaの彦根市中の「行政」カテゴリー記事には次のように書かれている。

* 市長:獅山向洋
* 2006年10月25日に市職員に対する新処分基準を発表、11月1日に導入。飲酒運転で人身事故を起こした場合原則懲戒免職とするなど厳罰化が図られる一方、獅山市長が憲法38条(何人も、自己に不利益な供述を強要されない)を根拠に「飲酒運転の報告義務は憲法に違反する」とし市への報告義務を削除した。しかし、倫理観や実効性への疑問等から11月24日までに市役所に対して電話や電子メールでの問い合わせが473件あり、うち9割以上が批判または批判的意見であった。

なんと、現在は「バカ市長」の記述が消えている。先の引用はGoogleの今年6月30日、つまり20日前のキャッシュである。キャッシュの記事と現在の記事では筆者が異なるか方針変更のように思う。「バカ市長」とWikipediaが揶揄したわけではないが現在の筆者はその表現を不穏当と考えたのか。このあたり、Wikipediaの編集方針の変動が感じられ面白い。Wikipediaは果たして「衆人の叡智」か「衆愚の知恵」か。もっと政治的なテーマで編集方針の変動を検証してみたい。

(ちなみにこの市長さん、判決を不服として上告するらしい。)

Validatorメッセージの日本語化(1)

2007年7月18日 (水)

WEBアプリケーションにはValidatorの機能は必須だ。Validatorとは、WEBアプリケーションの画面で入力された各フィールドの値の正当性チェック機能だ。たとえば、フィールドの入力有無チェック、整数フィールドの整数チェックや値の範囲チェックなどである。

このValidator機能はJava/Servletなら自作しなければならないが、WEBアプリケーションフレームワークであればその機能はそのフレームワークに存在している。たとえばJava/Strutsの場合には各フィールドのチェック機能をXMLファイルに設定するValidatorが付いている。Python/TurboGearsにももちろんValidator機能は存在する。それはFormEncodeパッケージのValidator機能をTurboGearsが利用したものだ。

このTurblGearsによるValidator機能は、ドキュメントや解説書どおりにプログラミングしても、エラーメッセージは英語である。たとえば入力必須フィールドに何も入力しなかった場合、TurboGearsのValidatorは’Please enter a value’というメッセージを出力する。さすがに英語のメッセージでは日本語アプリケーションには使えない。そこでこのValidatorメッセージの日本語化が必須なのだが、これがなかなか難物。そこでこの日本語化の過程を数回に分けて報告する。(結論としては、最上位のレベルでの日本語メッセージ化には成功していない。)

最初にやるべきことは、TurboGearsのValidator機能の大元であるFormEncodeのエラーメッセージファイルの日本語化だ。これは、FormEncodeドキュメントによれば次の手順でやるように書いてある。

$ svn co http://svn.formencode.org/FormEncode/trunk/“
$ cd formencode/i18n
$ mkdir <lang>/LC_MESSAGES
$ cp FormEncode.pot <lang>/LC_MESSAGES/FormEncode.po
$ emacs <lang>/LC_MESSAGES/FormEncode.po # or whatever editor you prefer
# make the translation
$ python msgfmt.py <lang>/LC_MESSAGES/FormEncode.po

最初の行のsvnコマンドは、既にインストール済みなので無視。<lang>は日本語なので”ja”とする。”jp”ではない。

emacsの行は、エディターでメッセージファイルを日本語で記述するの意。なおこのファイルの文字コードはutf-8でなければならない。そして結論を先に言うと、FormEncode.poファイル先頭部分の2行も次のように設定する必要がある。

“Content-Type: text/plain; charset=UTF-8\n”
“Content-Transfer-Encoding: 8bit\n”

そして、手順最後の行のmsgfmt.py は、\python\tools下に存在する。最後の行は、こちらの環境(Windows,Python25を”Program Files”下にインストール)では次のようになる。

> python C:\progra~1\Python25\Tools\i18n\msgfmt.py ja/LC_MESSAGES/FormEncode.po

この結果、FormEncode.poと同じディレクトリにバイナリメッセージファイルのFormEncode.moファイルが生成される。

次のステップは、日本語FormEncode.moファイルが正しく表示されるかどうかのテストだ。先ず一番下のgettextレベルでテストした。

...
    trans = gettext.translation(domain="FormEncode",
 	    localedir="C:\\PROGRA~1\\Python25\\Lib\\SITE-P~1\\
                                 FORMEN~1.EGG\\FORMEN~1\\i18n",
            languages=["ja"])
    msg = trans.gettext("Please enter a value")
...

(localedirパラメータは1行。)
ここで重要なことは、translation()メソッドのlocaledirパラメータだ。このパラメータにはFormEncodeのi18nディレクトリを指定するが、Windows環境ではファイルのロング名を指定してはならないのだ。

localedir=”C:\\Program Files\\Python25\\…

では駄目。完全なショート名でなければならない。この周辺の話題はこのブログの記事Pythonは空白がお嫌いにある。

上記テストの結果、最後にある変数msgに”Please enter a value”に対応する日本語メッセージが正しく格納されていることを確認した。

ここまでは割りと順調。この後が大変だった。(続く。)

物忘れは「若者」の専売特許

2007年7月16日 (月)

歳とともに物忘れがひどくなるのは定説である。なぜか忘れやすいのは固有名詞。我が家でも会話になぜか「あれ」、「それ」等の代名詞が増えているのは歳のせいか。それほど歳を取っているつもりはないのだが。老化現象による健忘症とは別に、なんと物忘れは、IT機器などの科学の進歩の「成果」らしい、という記事を読んだ。先日のCNN/ロイターの記事自宅の電話番号などの「失念症候群」と、携帯普及での話題である。

アイルランド・ダブリンにあるトリニティー大学の心理学教授らが3000人を対象に実施した調査

によれば

四分の一が自宅の固定電話の番号を忘れ、三分の二が友人3人以上もしくは家族の一員の誕生日を失念していたという。

なんと、四分の一が自宅の固定電話の番号を忘れたとは、その率の高さに驚かされる。そして

世代別では、ハイテク機器に慣れている若者世代によるこれらの記憶力低下が著しかった。30歳以下は50歳以上に比べ、覚えている誕生日や数字の数が少なかったという。また、調査対象者の三分の二は、重要な日付を確認するため電話などの電子機器に依存していた。

物忘れは壮年以降の専売特許で若者には無縁、といままで私は思っていたが、この調査では逆に若年層のほうが記憶力低下とのこと。

電車に乗るとかなりの人数が携帯電話を操作している。携帯電話嫌いの私としては、電車に乗っている時間まで人と繋がっていたい人たち、そして携帯でのコミュニケーションを望み対面でのそれを嫌う人たち、に非常に批判的だ。携帯の弊害として、携帯は人から対面コミュニケーション能力を奪う代物、と私は考えていた。しかし携帯の弊害はそんなものではなく、携帯は人から記憶能力という人間の基本的能力を奪う代物だったのだ。

記憶は思考の前提である。様々な情報を記憶して初めて、それらを有機的に繋げた思考というものが可能になるのだ。記憶能力が低下ということは、思考能力、しいてはすべての知性の低下に結びつくのだ。

このブログでは時々、政治を論理的に思考できない人たちを揶揄している。その主なターゲットは、思考無しでムードで政治を判断して右傾化している若年層の人たちだ。最も携帯を使う層である若年層の思考力が弱いのは、なるほど、その携帯などの電子機器に負うところが大だったのだ。

そして、電子機器が人間の能力を奪った端緒、それは電卓かもしれない。電卓が人間の暗算能力を奪ったのだ。

ひとがひとである所以はその思考能力だ。その前提となる記憶能力が失われつつあるということは、人類はIT機器がゆえに滅びるかもしれない、そう思った。

候補者の顔

2007年7月14日 (土)

29日が投票日の参議院選挙について。現在衆議院は小選挙区制となっている。この利点は、市民・国民の多数意見を強調する選挙制度、ということだろう。欠点は利点の裏返しで、死に票が増えることだ。衆議院がそうなら、参議院は「良識の府」にふさわしく市民・国民の意見をなるべくそのまま反映した議席数が望ましいため、比例区のみとするのが適当、と考えられる。ところが現在の参議院の選挙制度は、選挙区と比例区の二本立て、という中途半端な制度になっている。

誰に投票するか決める際、比例区は死に票が少ないため私は弱小政党を優先し、人物でなく政党の主張で判断している。

しかし参議院の選挙区、これが困り者だ。選挙区は、選挙制度的には中選挙区だが定数は小選挙区に近い思う。ということは、死に票が増えるため、票を有効に行使したければ二大政党から選ばなければならない。そう思って我が選挙区を見ると、入れたい候補者がいない。

私のように田舎に住んでいると、候補者が演説する場に遭遇する可能性は皆無に等しい。選挙公報はまだ来ないし、いまの判断基準は候補者の顔と経歴である。それらの情報は新聞から得られる。候補者の顔は結構重要な判断のファクターである。以下、我が選挙区の候補者の顔と経歴に対する印象である。(選挙公示後なので政党名は明示しない。)

  • Z党
    いままでにこの党の候補者に投票したことがないし今後も入れる可能性はゼロのため、パス。それにしてもZ党の議員はなぜ皆同じように権力欲・金銭欲・(そして人によってはH欲)に満ちた愚劣な顔つきなのだろうか。まあ、「国民」の代表と思えば納得ではあるが。
  • M党候補者A
    顔がZ党候補者のような、権力欲に満ちた顔。ちょっと投票したくない。
  • M党候補者B
    労組のたたき上げ。衆議院なら良いが「良識の府」参議院に労組出身はふさわしいとは思わない。顔も凡庸。
  • K党
    戦闘的な顔つきのおネェちゃん。ちょっと勘弁。
  • S党
    無神経そうなドおばさん。「良識の府」向きではない。
  • KS党
    学者なのに知性を感じさせず、変な色気があって気持ち悪いおばさん。

以上のとおりである。「国民」の代表の衆議院なら上記のような候補者も止むを得ないが、「良識の府」参議院にふさわしい候補者は一人もいない。これは政党側の責任が大である。これは、政党側が参議院を「良識の府」とは見なしていない、ということだろう。しかし「国民」の代表たる衆議院の暴走を防ぐためにも、参議院は良識の府として復活しなければならない。それなのにこの候補者とは。投票日まで悩む日が続きそうである。

(このブログでは、政治を論理的に考えることのできる人を「市民」、考えることができずに感情・ムードで政治を判断する愚民を「国民」と記している。)

 

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